彼の死を惜しむ話は色々なところに沢山の人が書いていますが、ここでは少し違う角度から彼への思いを書いてみたいと思います。
三沢光晴というと私はどうしてもある人物を思い出します。私の中ではもうこの二人はセットなのですが、それはタイガーマスクでも彼を育てた馬場氏、鶴田氏(この二人も故人ですね・・・)でもありません。それは恐らく今でも現役だと思うのですが越中詩郎というこれまた立派なレスラーです。
この二人はG馬場率いる全日本プロレスの若手ホープとして将来を嘱望されていましたが、恐らく馬場さんはこの二人を競争させながら将来の二大看板に育てていく方針だったと思われます。ある時に馬場さんはこの二人を同時にメキシコ修行に出したのですが、その直後に猪木サイドの新日本プロレスとのビジネスの切れた梶原プロダクションからビジネスの話が舞い込み、全日本で二代目のタイガーマスクを誕生させる機会を得たことで事情が一変し、急遽タイガーマスク的な運動能力に秀でた三沢選手がごく短期間で呼び戻されることになりました。
彼の帰国は極秘扱いで短期間で特訓を受けて二代目タイガーマスクとしてデビューして一気にスターダムに乗る事になるのですが、これは先輩格でありメキシコに取り残されることになった越中選手にとっては納得しかねる事だったようです。この辺は非常に複雑で両者の間にも複雑な感情が芽生えるのは無理からぬことだと思います。
やがて日本でもプロレス団体間の興行競争が激化してやがて仁義無き人気選手の引き抜き合戦にも発展するのですが、その中で越中選手が選択した帰国先はライバルの新日本プロレスでした。馬場さん直々の慰留をも蹴って厳しい道を選択した越中選手にも曲げることの出来ない男の意地があったのでしょう。
タイガーマスクとしてスターとなった三沢選手とライバルの新日本プロレスのリングで準スター的な扱いを受ける越中選手を見ながら一ファンとしての私の心も複雑でした。やはり新日本でも生え抜きの選手がスターであり越中選手の扱いは明らかにそれ未満のものでした。
「あそこに帰る訳には行かなかった」という越中選手の言葉も、「コーナーは違っても良いから彼とは同じリングに立ちたかった」という三沢選手の言葉は印象に残っていますが、これらは共に大分後になってからのもので両者ともに暫くは公的にはお互いに対するコメントは控えていたように思います。
その後の両者の活躍は書くまでも無く、共に日本を代表するレスラーになっていくのですが、私も海外に出てしまったりして果たしてその後この二人が同じリングに立ったことがあるのか、共に一流レスラーとして名を上げた二人が複雑な感情を消化して打ち解けることがあったのかどうかは全くわかりません。
三沢選手の訃報に触れて、すぐに越中選手のことを思いました。彼は間違いなく三沢選手の死を最も悲しんでいる業界人の一人だと確信します。
人間とか男とか言うものについてちょっと考えさせられる思いです。
とにかく三沢選手のご冥福を心からお祈りしたいと思います。
合掌。