2007年9月30日日曜日

At Major Cross Roads 2

ヘッジファンドという物は、よく名前の知られた大手且つ老舗でもせいぜい1980年代後半に誕生したものです。

90年代初頭のデータで確認されていたのが3百社ほどでしたが、これが2000年を超えた辺りで1万社を超えるという増え方をしており、当然ながら運用資産量や体力、何よりもレベル差には相当なバラつきがありますので、今後1年間くらいの期間に数千という単位で清算されるファンドが出てくるのではないかと思っています。

数千と言う数のヘッジファンドが消滅しても結局はリスクマネーやスタッフの多くは別の存続するファンドやリスク資産などに移動して経済活動を続ける事になると思われますので、特別な感傷を抱く必要は無く、ある意味では・・・・丁度、"千の風になって"と言う歌の歌詞のようなものだと思ってよいでしょう。

清算・消滅した組織の人材や資金は形を変えて生き続け、次なる経済活動を直接構成する、或いは間接的にサポートする要素となって生き続けるのだと思います。

実は・・・・知っている人が組織から独立して作ったヘッジファンドが、9月末をもってファンドを清算し、組織も解散する事になりました。
 金曜日の夜以降に、当地の複数の人々から会社清算の連絡を貰い、週末の間に色々と考えさせられました。

上記のとおり、一般論としてはこう言う話が数百、数千と言う数で出てくるのだと思ってはいたものの、まさか自分自身の身近なところからこんなに早くそんな話が出てくるとは正直思っても居ませんでした。

そして、やはりそこには、色々な人間模様がありました。

数年前に、ある投資銀行の腕利きのProprietaryチームが独立する形でこのファンドは誕生しました。
これはヘッジファンドの誕生としてはよくある話です。そして業界での知名度も評価も高かったお陰で当初から同業者をも含む多くの投資家から多額の運用資金が集まると言う理想的なスタートを切ったこのヘッジファンドは、初年度には快調な実績を残して順風満帆に思えましたが、スポーツの世界で初年度に大活躍したルーキーが2年目以降スランプに陥るジンクスがあるように、ここのパフォーマンスにも徐々に失速感が出始めて、徐々に運用委託契約を解約して資金を引き上げる投資家も増え始め、ここ数ヶ月はかなり窮屈そうな運営となっていました。
 ここはサブプライムエリア等には投資していないファンドですが、世間はそんな区別はしないでしょうし、組織の建て直しには少し時間がかかりそうだと言う判断で思い切って組織を清算する事にしたのでしょう。

今回の事には、最後まで残っていたスタッフ同士の愛情を感じる部分があり、皆とてもよい人々だったので、彼らの次のステップを心から応援したいと思っています。

あるシニアな方が居ました。彼はずっと組織の状況を知る立場にいた訳ですが、ある時点で組織存続の為にはリストラが必要であると判断し、その時に出来るだけ若い世代が組織に残れるようにと自ら退職願を出されました。
 今年の初めの頃の話でしたが、当時まだ米国にいた私の所までわざわざ事情を説明しに来てくれた彼の話を聞きながら、彼の自分達に付いて来た後進の人々に対する深い愛情に触れてとても複雑な思いを抱いた事を昨日の事のように思い出すことが出来ます。会社の下の地下鉄の駅に繫がる場所にあるスターバックスのコヒーはいつもよりも苦い味がするようでした。

若い連中は、苦しい時代を乗り切って組織を立て直そうという気持ちを持って頑張っていました。そして、その事がここの親分をして今回の決断をさせたのではないかと私は考えています。

組織を解散でもしなければ、この連中は自分の元を去らずに頑張り続ける可能性が高いが、諸般の状況から組織の建て直しには時間が掛かると判断せざるを得ず、給与などの処遇面で充分に報いてあげられないという気持ちに加えて、今後同様の判断をする同業者が増えれば再就職先を求める人々の競争が激しくなるので、早い段階で決断するべきではないかと言う判断があったのではないかと思うのです。

この組織は、上も下もそういう人達でした。

Do not stand at my grave and weep,
I am not there, I do not sleep.
I am in a thousand winds that blow,
I am the softly falling snow.
I am the gentle showers of rain,
I am the fields of ripening grain.
I am in the morning hush,
I am in the graceful rush
Of beautiful birds in circling flight,
I am the starshine of the night.
I am in the flowers that bloom,
I am in a quiet room.
I am in the birds that sing,
I am in each lovely thing.
Do not stand at my grave and cry,
I am not there. I do not die.

これが確認されている"千の風になって"という歌の原型です。一部で2001年9月の同時多発テロに関係する歌だと勘違いされていますが、これはとても古い歌で、Mary Fryeという米国女性が1932年に母親の他界を偲んで作ったものだと言う説が有力だそうです。
 今回の彼らの挑戦と撤退もこの歌の通りだと私は思います。

私は、この場を借りて、心から彼らの挑戦に敬意と賞賛と拍手を送ります。そして今回の組織の解散を彼らが、或いは彼らの試みが失敗した結果なのだとは必ずしも思いません。少なくとも彼らもそこから多くの物を得たと思うし、我々も彼らから多くを学ぶ事が出来たわけです。

我々もそういう気持ちで大きな挑戦をしたいものです。

At Major Cross Roads 1

いよいよ残暑の名残も影をひそめて、季節も急速に秋の色合いを強めてきたように感じます。
クールビズ(と言うのでしたっけ?)の期間も終了し、週明けからはまたネクタイをして出勤する必要があるようです。

9月末というのは、本邦企業にとっては半期末であり、全世界共通で四半期末という節目になりますが、28日の金曜日はこれに週末と言う要素まで加わったまさに節目のタイミングとなりました。

週全般の動きを総括すると、金利債券市場、クレジットデリバティブ市場は安定的なConsolidation、株式市場は多くの市場で史上最高値水準まで復活したという状態ですが、為替市場に関しては断続的に米ドルの下落トレンドが鮮明になり商品市場でも小幅調整をこなしながら強気相場が継続と言う展開でした。

特にドル安に関しては週末の金曜日にドルインデックスが史上最安値を更新する等、10月相場に向けてVolatilityの上昇を予感させる終わり方をしており、2007年度も終盤の3ヶ月が非常に重要な時間帯となりそうです。

1 米国景気は、減速? 縮小? はたまた破綻か?
2 FRBの利下げ幅とペースは?
3 米国不調下の欧州、アジア、エマージング経済は独自の成長を維持できるのか?
4 日本はアジアの殿をつとめるのか?

などが大きな着眼点となりますが、更に細かく言えば・・・・

①金価格、原油価格、食物価格は本当に上がり続けるのか?
②世界の株価は再び大幅調整の危機に晒されるのか?
③米ドルベアトレンドの中の勝ち組と負け組みは?
④日経平均、日本円は負け組み候補から脱出可能か?
⑤金融商品取引法下の本邦からの投資資本流出は?

というテーマが大きな注目材料となるでしょう。

世界の金融当局は、8月中旬の動乱以降9月末までは混乱の沈静化に見事な舵取りを見せましたが、問題やリスクの芽を根絶したと言うよりは問題の表面化や悪化を上手く抑制してきたという要素が強い為に、今後も米国を中心に主要国の経済指標や主要企業業績の悪化や再びリスクテイクに動き出す投機筋への対処という難題に取り組む必要があります。

実は・・・・職務としてトレーダーやファンド運営に携わっている我々はその愚直なまでの勤勉さゆえに(?)ついつい見落としがちではありますが、ここからの数ヶ月、或いは2年~3年と言う期間は、我々の個人資産の防衛や運用において非常に重要だと思われます。それこそ我々がどういう老後を送るかがここで決まるくらいの重要度かもしれないと思っています。

人生がドルベースの人、円基準の人も、一緒に考えて行きましょう。コモディティ市場の爆発的な上昇は、資産の大部分を預貯金という形・・・・つまりは通貨で保有する事自体が大きなリスクとなり始めている事を示唆しており、更に債券や株式で保有する事でもそのリスクはヘッジし切れない可能性もあります。

"紙からモノへ"・・・・・資産を紙幣や株券という紙から金などの貴金属や原油などのエネルギーや小麦などの食物と言う形で保有する動きは資本主義経済の根幹を揺るがすものです。

"神から物へ”・・・・群集の信仰の対象が神から富と変化するという物質主義に走り過ぎた資本主義の行き過ぎを是正するような動きが、その富の象徴であるPaper Assetの根源的価値の下落と言う形で始まっているとすれば、それはとても皮肉な話です。

いずれにしても、短期的にも中期的な視点でも我々は今、大きな分岐点に立っている事は間違いなさそうです。

We are at a major cross roads, unlike any....in the past few years.

2007年9月24日月曜日

When the smoke is eventually cleared.....

今の部署に移ってからは、毎朝家を出るのは6時20分くらいでしょうか。

以前日本にいた時も、米国時代も、そして現在も同じですが、多くの人は毎日意外と型にはまった生活パターンをしているようで、出勤時や駅のホームで決まって顔を合わせる名前も知らないし話した事も無い文字通りの”顔見知り”が居ます。

そんな中に、ある親子がいます。

父親は私より年上と思われますが、子供は小学校の1年生か2年生といった感じでしょうか。ランドセルが大きく見える小さな男の子がお父さんと一緒に電車に乗るのですが、この親子が駅に向かって歩く姿をよく見掛けます。

何故だろう・・・?

初めてこの親子を見かけた時にはそう思いました。

父親と子供の間が妙に開いていて、10メートル位先を歩く父親を追いかけるように、小さな男の子がとぼとぼと歩いていくのです。

そんな初日の疑問に対して、二日目には仮説を立て、三日目にはほぼ確信に変わったと言う感じなのですが、どうやらこのお父さんは、自分が喫煙をしているために子供から離れて歩いているというのが正解だったようです。(勿論当人に確認したわけではありませんが・・・)

私は喫煙者ではないし、過去にも喫煙をしていた事も無いのでピンと来ないのですが、あれは一種の麻薬なのではないかと良く思います。

 周囲には少なからぬ喫煙者が居ますが、中には相当なヘビースモーカーも居て、明らかに禁断症状を感じる事もあります。

 このお父さんも、私と同じように朝早く出勤して、帰りもそこそこ遅いのだとすれば毎朝駅まで子供と歩く10分程度の時間帯はとても貴重な親子の時間なのではないかと思うのですが、彼には子供に煙を吸わせないように10メートルほど離れて歩くと言う愛情はあっても、朝の一服を犠牲にして子供と手を繋いで歩いたり、色々と話をしながら親子のふれあいを持つと言う事にはならないのだとしたら本当に勿体無い話だと思います。(大きなお世話でしょうが・・・)

煙草の禁断的な中毒性は、文字通り愛煙者の視野を煙で曇らせてしまうようです。

嫌煙者の独断ですが・・・・

私は喫煙は自己リスクの原則において当然認められるべき行為だと思っています。ただ喫煙者の大半はいまさら喫煙が健康に良い等という幻想は持っていない中でどうしてこれだけの人々が喫煙をしているのかは興味深いテーマと言えます。

ズバリ・・・人間とは、余程訓練でもしていない限りにおいて、将来のリスクにいくら警鐘を鳴らされても目先の効用には逆らえないものなのではないでしょうか。

よく聞くのですが、緊張が解けてリラックス出来る、集中力が高まる、眠気が取れる・・・喫煙の効用はこういうものらしいのですが、これらの効用の”煙”が喫煙者の健康意識や家族愛までをも曇らせてしまうというのは驚異的なことです。

より大きなレベルで見ても面白いことに気がつきます。個人だけではなく国レベルで見ても全く同様なのです。

地球温暖化の問題を見てみましょう。二酸化炭素の排出を煙草の煙に置き換えてみれば議論は相似形と言えます。いまや二酸化炭素の排出が地球温暖化の主因であり、これを抑制していくことの必要性に意義や疑問を唱える国はありません。

しかし、途上国は経済発展という目先の効用を優先する理由から先進国を中心とした削減を主張し自分達は排出しまくり、同様に経済活動優先と言う理由から米国までも京都議定書に当初から参加せず、今年の春には"環境問題先進国"のカナダまでもが京都議定書の削減目標の放棄を宣言するという事態に至りました。最早京都議定書は完全な骨抜きになったと言わざるを得ません。

経済絶好調で遂にカナダドルが対米ドルでParity(=1.0)を突破している状況下で、経済活動を犠牲にしてまで京都議定書の目標を遵守するわけには行きませんというのがかの国の政治判断なのですが、よりによってパーティの真っ最中に禁煙はないでしょうと言うというのが今の状況でしょう。

ところで・・・・・

将来のリスクは一応認識しており、また最近少々痛い目にあった人も少なくない・・・そんな中で多くの投資家にとっての禁断の(?)目先の効用とはいったい何なのでしょうか?

これが細かく金利差による収益を積み上げるキャリートレードであるならば、今後数ヶ月で相当進む可能性のある米ドル下落相場の中で、日本円は必ずしも勝ち組には入らない可能性もあるのではないでしょうか。ユーロや豪ドル、カナダドルなどが対ドル、対円で再び高値を更新していくような相場展開も十分ありと言うことだと思います。

世の中には大円高を予想する向きも少なくありませんし、それは十分に理解出来る予想です。ただ、世の中の喫煙者が減らないことと同様にキャリートレードも中々減らない可能性があるということです。

いずれにしても、まだまだ視界は色々な煙で曇っていますね。


"Cutting both rates" cut both ways.

注目された18日(火曜日)のFOMCミーティングでは、Bernanke議長の新FEDが市場予想を上回るかなり踏み込んだ対応を見せた訳ですが、これが大きな波紋を呼んでいます。

①Discount rate(公定歩合) と Fed Fund rate(金融政策の短期金利誘導目標金利)を両方とも引き下げたこと。
②ともに切り下げ幅が市場予想を上回る50bp(0.5%)であったこと。
③その後の議会証言なども併せて一段の追加利下げの可能性を否定していないこと。

などが大きなポイントだったと思いますが、これを肯定的に評価する意見と否定的に評価する意見が市場を駆け巡り、今後の金融市場の動向を左右する大きな材料となることは間違いなさそうです。

株式市場とクレジット市場はFOMCの結果を好感し、FOMC翌日には株価もクレジットスプレッドも8月半ばの混乱前夜の水準にまで急回復していました。
 反対に否定的な評価が見られたと言ってよい為替市場と商品市場では、前者は大きくドル売りに動意し、後者(商品市場)にも怒涛の資金流入がありました。

ズバリ・・・私の評価は二重丸+花丸と言う最上級のものでした。誰も気にしていませんが(笑)

世の中も金融市場も理屈通りには行かないものです。
全てを理屈・ロジックで正しく判断しても大抵は思ったようにはなりません。

Wall街出身で現場上がりのGreenspan前議長とは違い、学究畑一筋と言う経歴のBernanke議長に対する不安はまさにここにありました。あらゆる経済理論やロジックを駆使しても説明できない何かが金融市場にもあるのですが、これを肌で理解していないと思われるBernanke議長が冷徹且つロジカルに現状を分析し、ここで踏み込んだ利下げに踏み切ればモラルハザードが起こると判断する可能性は無視できない状況だったと思います。
 リスク管理の甘かった投資銀行、ヘッジファンド、儲け話に目が眩んでリスクを取った投資家には相応の痛みを経験させることに彼なら躊躇はしないのではないかという懸念があったのです。

そんな中でBernnanke議長が、上述のようなアケデミア的見地からすれば踏み込みすぎと感じるほどの金融緩和を断行したことは、私はフェアに見事だと喝采を送りたいと思っています。

市場の評価は二分した状態ですが、どう考えても今回だけは、何をやってもやらなくても、間違いなく評価は二分していたことでしょう。万人を納得させる選択肢は無かったのですし、金融緩和に舵を切るなら中途半端じゃなくやったろうじゃないの・・・・という男気すら見せてくれたような気がするのです。

人気もカリスマもあった前任者の後は大変やりにくいもので、その意味で安倍首相もBernanke議長も少し立場が似ていると書いた事がありました。
 安倍さんは、残念ながら挫折してしまいましたが、Bernanke議長は、今回の市場の混乱を上手く収めれば最終的に前任者同様の名議長だったと言う評価を受ける事だって夢ではないでしょう。

頑張れ、Benちゃん。少なからぬ人々が、今回のあなたの勇気と決断を称えています。

The first cut is the deepest. という最近ではシェリル・クロウも歌った名曲がありますが、これを拝借して最初の利上げで少々市場が混乱したと言う意味で、The first cut is the tempest. というキャッチも考えたのですが、やはり評価が二分していることや、実際に大幅利下げは色々な意味で両刃の剣とも言えるという意味で、海外向けに書いているレポートには、"Cutting both rates" cut both ways. というキャッチを付しました。

2007年9月16日日曜日

Every moment in life is unique and has meaning.

7月に家族を呼び寄せてから生活が一変した事は言うまでもありません。

皆大変ですが、特に事実上日本を初めて見る子供たちにとっては完全に異国に来たようなものです。
学校はどうするのか、公立?私立?インターナショナル?・・・受験はしますか?・・・ETC

だって・・・子供でしょう? え?受験するなら4年生からでは準備が遅い?・・・・え?・・え?・・・え~?
と言う感じなのですが、なんでも有名校に行かせようと思うなら各有名校別に準備する事が違っていて希望校毎にお奨めの塾まで違う・・・・・ここまでは耐えますが、5年生、6年生でその塾に入るために低学年から行くべき塾がある・・・?

塾に行かせるにしてもそれはあくまでも学力を高める目的であって、早々と決めていた希望校に入るための特別な準備をする場ではないだろうと思うのですが、今のご時世どうやらそれは完全な奇麗事のようです。

と言う事で・・・・・

どうも私立にしても塾にしても色々な人々が不当な利益を得ている構図が出来上がっているような気がしてしょうがないので、取り敢えずは子供の英語力を維持させてそれを伸ばしていく事に注力し、最後は米国の大学なり大学院なりにでも行ってくれればいいという作戦で動く事にしました。

さほど遠くない場所に充分共鳴出来るコンセプトで運営されている帰国子女向けの英語学校(?)があったのでこの週末も土曜日クラスなるものをトライヤル体験してきました。

「お父さんはまた後で」と言われて約一時間後に戻る事にして子供だけを残して私は駅に向かいましたが、学校から2ブロックほどしか離れていない交差点での出来事でした。

「危ない」・・・・・という誰かの声がしました。そして次には、車が急ブレーキを踏む音が続いたのです。

ガチャーン・・・・・と言う音がして・・・・息子と同じくらいの男の子が乗る自転車の側面にタクシーが突っ込みました。

私を含めて周囲の人々が駆け寄り、急停止したタクシーからは運転手が下りてきます。

子供は直ぐに立ち上がり、逃げるようにそのまま自転車で立ち去ろうとすらしました。どうやら子供に擦り傷以上の怪我は無く、自転車にも大きなダメージは無いようでした。

さて・・・どうしようか・・・という話になりました。擦り傷程度、自転車もOK... 警察を呼ぶかどうかと言う話になりましたが、「今は気が動転して興奮状態なのでわからないけど、後でどこかが痛くなったりと言う事もあるし一応記録に残しておくべきでしょう」という事を私も述べましたが、社内ルールもあるのでしょう、タクシー運転手も警察を呼ぶ事に同意して直ぐに連絡していました。「子供が飛び出してきた」と・・・。

私は子供のそばに居続けました。とにかく何も心配しないでいい、誰にも怒られないし、皆怪我が無かった事を喜んでいるんだと言う事を頭をなでながら伝え続けましたが、彼は両親に連絡が行くということになった時に大粒の涙をたくさんこぼして泣き始めました。

話を聞いていると、彼は自転車で近くにある大きな駅に携帯電話のデジカメで写真を取りに行くところだったようです。「お母さんは、いつも凄く怒る。」「警察は僕を逮捕するの?」「警察ってお父さん?」・・
そんなことを言いながら泣きじゃくる彼が孤立しないように私はそこに居る事にしました。どうせ息子を迎えに行くまでには充分時間があったのです。

彼の自転車に彼の名前と自宅の住所、電話番号が貼ってあったので、集まっていた集団の中の女性が彼の自宅に連絡を入れました。

「大丈夫ですので落ち着いて聞いてください、XX君は今車とぶつかってしまいました」
「特に怪我などはしていないようです。警察も呼びました。ここに来られますか?怒らないであげてください」

「そういう言い方では駄目だ!」・・・運転手が近寄ってきました。「しっかり叱り付けて二度と飛び出さないようにしてもらわないと」彼は大きな声でそう言っていました。

この野郎・・・保身こいてんじゃねーよ・・・ 悪いけど、あんた・・・・加害者なんだよ。私はこみ上げる怒りを抑えつつ、自分がここに残ってよかったと思っていました。周囲の大人はタクシーが上手に止まったとか、制限速度守ってたから子供が怪我しなかったみたいな事を話していたし、何事かと思って見に来る野次馬達には運転手が、「あの子が飛び出してきた」みたいな話をしていたので、私は自分が彼の味方をしてあげようと決意していたのです。

確かに、交差点の優先道路を走っていたのはタクシーでした。そこに非優先道路から彼の自転車が停止せずに交差点に進入してきたのです。
 でも・・・彼がタクシーの側面に突っ込んだのではなく、停止せずに先に交差点に進入してきた彼の自転車の側面にタクシーが急ブレーキをかけながら突っ込んだのです。
 業務上交通事故は減点も大きいのだとは思うし、その事には同情しますが、子供を叱り付けて終わりと言うのはやはり違うと思います。

やがて彼のお父さんが駆けつけました。ご父君は警察の方でパトカーで駆けつけた警察の人々とも顔見知りのようでした。

「多分うちの子が飛び出したのでしょうが、車と自転車なのでその点はご理解ください」

そう言って運転手にも釘を刺して清々と処理に当たるご父君を見て私は大いに安堵し、別の警察官から目撃者として私の連絡先などを聞かれた後は開放されました。「警察ってお父さん?」というのはこういう意味だったのだと言う事も判明しました。

金融市場には、 Every moment in the market is unique. という格言(?)があります。全く同じ二つの相場展開というのはないし、狭いレンジ相場にも何らかの意味があります。それを考え、感じ取るように努力すると言うのがある意味では我々の日常なのです。

神の配材・・・などと大袈裟な事は言いませんが、私が偶然その場に居合わせて、彼の父親が到着するまで彼に付き添ってあげた事、特に予定も無く付き添ってあげられる私があそこにいたこと・・・・そんな事にも実は意味があったのではないか・・・・そんな気がしています。

それにしても・・・・もっと弱者である子供に優しいコミュニティーであってよいのではないか・・・・子供を咎めるような雰囲気が無いでもなかったことはとても気になっています。

あの少年が、ご両親に怒られずに、また電車の写真を取りに行かせて貰っている事を祈っています。

He was not "The last samurai" but was "a samurai at last" :安倍首相とBernanke議長

水曜日の安倍首相の突然の辞任には本当に驚きました。

辞任の理由、背景、周囲は知っていたのかどうか、内閣総辞職なのか、議会解散、衆議院選挙はあるのか・・・などなど首相が辞任すると言うこと意外は全くわからない中で金融市場も乱高下しました。

一番動いたのは株式市場だったと思うのですが、それまで前日比少しマイナス圏と言う程度で推移していた日経平均は、程なく前日比100円以上の上昇と言う水準まで吹き上がり、やがて上げ幅以上に反落してマイナス100円以上の水準まで落ちた後結局はそこから小幅に戻したマイナス圏で取引を終了しました。

気の毒ですが、安倍首相の辞任はプラス材料とする声も多く聞かれましたが、それ以上に足元の不透明感増大や数週間の事実上の政治空白期間が不可避であることなどは最終的には投資家心理にはマイナスであるということでしょうか。

世論のほうですが、こうなると配下や取り巻きに足を引っ張られ続けた安倍氏への同情論が多いように感じますが、私も武士の子孫であり、全く同じように感じています。

彼が官房長官として国民の絶大な評価を得て、小泉首相にも抜擢される形で後任首相の座まで上り詰めたのは、特に拉致問題解決に向けた対北朝鮮外交における軸のぶれない交渉姿勢にあったと思います。

 ただ残念ながら、首相になってからは相次ぐ側近の不祥事において国民や国政よりも側近のほうをかばってしまうかのような印象を残し続けたのは全くの致命傷でした。

松岡農相を切れなかった事1つとっても彼の人事上の甘さが浮き彫りになるのではないでしょうか。所謂"泣いて馬しょくを切る"という行為が出来なかったのは、松岡氏が安部政権誕生過程で九州ブロックの党員の票固めに奔走してくれた事とも関係があったのではないかと思うのですが、このように自分についてきてくれた人や自分を持ち上げてくれた人に報いたい、少々の事なら守ってあげたいという気持ちは痛い程理解できます。

勿論国政の、ましてや内閣と言う頂上にあってこれをやられたら国民はたまったものではないわけですからやはりこの辺りのけじめがつけられなかった事が安倍さんの限界だったと言う事でしょうか。

政党間でもメディアも何だかあら捜し的なバイアスを強めている事には強い危惧を禁じえませんが、それにしても次から次に閣僚レベルで続出する不適切な会計処理などはどうしたものでしょう。

殆どの政治家はクリーンにやっている中で何故か問題のある人達ばかりが選ばれてしまったと言う確率は逆天文学的に低く、大丈夫そうな人を選んでこの有様だと言うのは実は政治家たちはみな私腹を肥やす事にもご熱心であると言う事が明らかになったといわざるを得ないでしょう。

悪役に徹する事も必要と割り切って走っては来たものの、もう流石に嫌になったというような"切れ方"を安部さんがしてしまったとしても無理もない部分もあるかもしれないですね。あの上杉謙信だって全てを投げ出して高野山に奔走してしまった事があったように。そのカリスマ性は比べるべくもないにしても・・・・

ところで、安部首相とBernanke議長には大きな共通点があると思ってきました。前任者が長期政権であること、絶大な人気とカリスマ性のあるリーダーであったことという部分において両者は全く同じ立場に置かれてきたと思います。

今週のFOMCは、一部ではBernankeのワンマンショーと目されています。火曜日のFOMCでBernenke議長率いるFedがどのような金融政策を発表・実行し、そして声明文ではどのようなメッセージを市場に対して送るのか・・・・・これで目先の金融市場の動向は完全に決するでしょう。そして奇しくもその前週に、同じような立場にあった安部首相が突然辞意を表明したと言うのは何を示唆するのでしょうか・・・・非常に興味深い状況になってきました。

Abe was not a last samurai but he was a samurai at last.

安倍さんは、ラストサムライのような格好よさは無かったけれど、最後は潔かった。海外向けのレポートにはそのように書いて送ったところ、意外と好評でした。

Bernankeさんは、何を見せてくれるでしょうか・・・・彼が切るのはお腹じゃなくて政策金利のはずですけどね。Stay tuned.

May peace prevail on earth.

物事の本質は二次元の大きな絵ではなく、三次元の立体的な彫刻のようなものだと書きましたが、今年は初めて9月11日の同時多発テロメモリアルデーを米国外で迎えました。

自国で自国民が被害にあったのと、他国で他国民が被害にあったのとでは随分違うのだなというのが正直な印象です。

 日本の場合は、悲しいことに日本人の被害者も随分と出ていますが、遺族の方々以外の殆どにとって、あれは基本的に米国での出来事と言うことになるのでしょう。色々と聞く限りにおいても米国拠点で犠牲者を出した日系企業の中で、9月11日に本社でアナウンス、メモなどが配布されたり黙祷をしたりと言うことも行われた気配はありません。流石に米国拠点では継続していると思いますが・・・・

日本のメディアの報道に関しては、NYでのメモリアル式典の様子を淡々と伝えるというのが殆どだったように思いますが、少し突っ込んだ報道をするところの殆どは反米、嫌米バイアスを前面に出してきていたように思います。

米国の覇権政策、中東政策の破綻が原因だとかいうのが多いのですが、これではかつて日本に2発の原子爆弾が落とされた原因は日本がアジアに進出して隣国に少なからぬ苦痛を与えたのが原因だと言う理屈と何も変わらないような気がします。

暴力や武力で物事を解決する姿勢こそが非難されるべきであり、日本に原爆を落としたことでは米国は加害者として強く非難されてよいと思いますが、9-11では被害者以外の何者でもない米国を非難するような論調が目立つばかりで、テロを行った側への非難・批判が皆無のように思えたのは個人的には全く理解に苦しむ思いを抱きました。

しっかりしたメディアのゴールデンタイムに近い時間帯に登場した人物が展開した9-11は米国の自作自演とする珍説には苦笑を超越した感情すら抱きましたし、それを新事実のように扱って驚いたり感心したりする人々を見て非常に不思議に思いました。

「ビデオを見ればわかるが、飛行機がぶつかる前に最初の爆発音がしている」
「中東の派遣を手に入れるべく軍事介入をする口実を必要としていたBush政権の自作自演なのだ」
「イラクが原油取引をドル建てからユーロ建てに切り替えようとしていた事も米国は許せなかった」
ETC ETC

欧州、米国、ロシア、中国などが中東の利権(覇権と言うより利権ですね)を争っていたことは事実ですし、父親(Bush前大統領)を暗殺されかけたBush現大統領がイラクを敵視していたのも事実でしょう。

最初の、飛行機が当たる前に最初の爆発音がしたというのは、93年春の最初のテロの時のように地下の駐車場に爆弾が仕掛けられていたという仮説ですが、これは今となっては検証の仕様もないし、頭ごなしに否定は出来ないと感じる部分もあります。
 ただ、そうだとすれば、やはりアル・カイーダが用意周到に飛行機のハイジャックが失敗するリスクも無視出来ないので地下駐車場にも爆弾を仕掛けていたと考えるべきで、これが米国の自作自演であるという部分は明らかな論理の飛躍です。怖いと思うのはこういう論理の飛躍に気がつかないのは受け手に当初から米国に対する冷めた感情があるからではないかと考えられることです。

こういうこともありました。

XXXステーションという報道番組で初代キャスターを勤めた元アナウンサーが引退した後は二代目も元アナウンサーがキャスターを勤め、リベラル系の大新聞の編集者が論評を加える図式は今でも変わっていません。
 まだ初夏の頃でしょうか、日本に復帰してからこの番組を何気なく見ていたら、米国の大学キャンパスで留学生が拳銃を乱射して多数の犠牲者が出て、犯人である韓国からの留学生も拳銃自殺して発見されたと言う事件を特集で報道していました。

非常に怖い、恐ろしい事件でした。

番組では・・・・・

キャスター 「この銃社会アメリカの根深い病巣とでも言うのでしょうか。背筋が寒くなりますね」
解説者   「もともとカウボーイの国ですから立国の精神とも結びついているんですね」

と言うような解説が続き、やがてこのコーナーは終了しました。

OK, So far so good. I would not share what they delivered but can accept them all.

問題は次です。

「続いて国内のニュースをお伝えします」・・・・という出だしで始まった国内のニュースでは関西だったか九州だったか・・・・銃を持って人質を取って立て篭もった元暴力団の男が現場を包囲する警察官を射殺したと言うニュースが有ったのですが、この依然として闇社会との二重構造を有し、”あちら”では法律で禁止されている武器も薬物も普通に流通している日本と言う国の現状が抱える”根深き病巣”は彼ら報道関係者には見当たらないのでしょうか・・・・・ この二つに事件に根本的な違いは有ったのでしょうか?

病巣とは言いませんが、私はこの部分に非常に"根深きもの"を感じてしまうのです。

米国だろうと日本だろうと・・・・世界中どこでも、真面目に一生懸命生きている人達が安全に幸福に生きていける世の中であることを切に願うのみです。

May peace prevail on earth. God bless us all.

初めて米国外で迎えた9-11メモリアルデーは平和に無事に終了して何よりでした。

2007年9月9日日曜日

Name Value : Name その2

会社では色々なものが配布されますが、不埒にも大半はその日の内に捨ててしまいます。ちょっとは目を通すようにしていますが・・・・

でも、最近配布された人権意識の啓蒙に関するペーパーは、ちょっと心に刺さるものがありました。
「江口いと」さんと言う方の「人の値打ち」という詩です。

ちょっとだけ抜粋すると・・・

いつかもんぺをはいてバスに乗ったら隣座席の人は私をおばさんと呼んだ。
戦時中よくはいたこの活動的なものを、どうやらこの人は年寄りの着物と思っているらしい。

よそ行きの着物に羽織を着て汽車に乗ったら、人は私を奥さんと呼んだ。
どうやら人の値打ちは着物で決まるらしい。

講演がある。何々大学の先生だと言えば、人々は耳をすませて聴き、良かったと言う。
どうやら人の値打ちは肩書きで決まるらしい。

名もない人の講演には、人々はそわそわとして帰りを急ぐ。
どうやら人の値打ちは学歴で決まるらしい。

後略

これを読んで、全くその通りだと思いました。

この2週間ほどの事だけを振り返っても、こういう事がありました。

事例1

後輩の一人が欧州、米州に出張する事になりました。出張の趣旨とは少し違うのですが、どうせなら海外の主要な市場参加者達と情報交換をして来たらと言う事で、彼の為に出張時のAppointmentを取るように頼まれました。
 早速ロンドンオフィスの英人とNYオフィスの米人に作業を依頼すると・・・・なんと欧米の両方から面談希望先とのアポは難しい事、アポ自体は可能な先でも先方のシニアな人には会わせられない事など・・・なんとも寂しい反応がありました。
 理由は、この後輩がポジション的にも肩書き的にも役不足だと言う事で、面談希望先の主要な人物にはせめてGeneral Managerクラスでないと釣り合わないという事が彼らの主張でした。

事例2

ある米系投資銀行が運用している債券ポートフォリオの国別投資比率のリバランスが注目されていますが、サブプライムで市場環境が大きく変わる中で8月末のリバランスもちょっとした注目を集めていました。
 「これに関する情報が入手出来ないだろうか?」・・・そんな依頼を受けた私が同じように英人や米人に情報収集を依頼すると・・・・・こんなやり取りとなりました。

先方 "OK, but who needs it there by the way?"
当方 "Everyone here is interested in that"
先方 "I will have to take time and ask around. Who am I doing this for?"

この野郎、いつもテメーらの尻拭いをしている俺が頼んでいるだけでは動けねーとでも言うのかよ・・・・・と大いなる脱力感を感じながら、勝手にちょっと偉い人の名前を拝借して伝えたところ・・・・
"Wow"などと言ってやつらは探し始めました。

結局頭に来た私は事例1では、彼らを通さずに自分で外部にコンタクトして後輩のアポを整え、事例2の資料も彼ら以外から入手しました。

どうやら組織の中でも、人の価値はポストや肩書きで決まるようです・・・・ま、仕方ないですかね・・・

そう言えば、こんな表現があるくらいです。

The name of the game is the game of the name.

要するにネーム次第よ・・・・と言う意味です。
やや自虐的なるも切れる英語表現でございます。

今後とも健気なLighthouseの管理人、Robert Henryをよろしゅう頼みます。

Name calling : Name その1

Call my name. 私の名前を呼ぶ→私を呼ぶ
Call me names. 私の悪口を言う

You can call my name but do not call me names. 
必要な時は私を呼んでください。でも私の悪口は言わないで。

冒頭の二つの表現の違いを整理するために、このような例文を自分で作って記憶していた少年時代を懐かしく思い出します。

二つ目の表現は、Callという他動詞の後に来る目的語をme,himと言った目的格とする事とその次に来るのがname(単数形)ではなく、names(複数形)とするのがポイントですが、これは悪口が口コミで広がっていく様を想像してイメージ付けると良いと思います。

この表現の名詞形とも言えますが、他人の悪口を言う事、それを広めるという行為をName callingと言います。
 米国では子供が通っていた学校の校長先生から全世帯宛に、校内の一部でName callingという卑劣な行為が起きているようなので各家庭でもそれがいかに卑怯な行為であるかを子供に教えるようにと言う手紙が出された事がありました。普段は何もしていないように見えた校長先生が、こういう時には別人のように陣頭に出てきて毅然とした対応をする所に妙に感心した事を覚えています。

私は子供の頃に、夜中にトイレにい行く時に、トイレに化け物が居たらどうしようという恐怖から必ず両親のどちらかに自分がこれからトイレに行く事を伝えてから行く事にしていました。
 両親は眠ったまま適当に返事をするだけでしたし、実際にトイレに化け物がいたならひとたまりも無かったのでしょうが、自分がトイレに行く事を知っていてもらうだけで安心出来たのです。

校長先生の手紙が持つ効果も、両親の寝ぼけた返事も、ともにそれらが持つ実態的な効力を証明する事は困難であり、せいぜい経済学で言えばシグナル効果という程度しか無かったかもしれません。

でも・・・私はこれが非常に大事だと思うのです。

金融市場において、欲望と恐怖は表裏一体ですが、市場への影響力には完全な非対称性があります。バブルの形成過程では欲望が主な原動力になりますが、資産価格の上昇は段階的なプロセスとなります。一方でバブルの崩壊過程で主役の座に躍り出るのは恐怖な訳ですが、その過程における資産価格崩壊の形状は殆ど断崖絶壁からの垂直落下に近く、それまでの価格上昇過程とは全く非対称な形状となります。

ECBとFRBが大規模な流動性の供給に踏み切った事は大英断でした。そしてFRBが行った緊急の公定歩合引き下げも見事な手際だったと思います。それらが金融市場の安定にどれだけ寄与したかは全く議論の余地が無い位に明白なのです。

市場の一部には、それがどうしたと言う意見もありましたが大事な事は実際に金融市場が安定した事なのです。当局の言動は、校長先生の手紙や両親の寝ぼけた頷き程度かもしれませんが、その絶対的な存在の重さに裏打ちされたシグナル効果は理屈や学問理論上の正当性以上に大切な時があるのです。

金融市場を支配するのは、経済学上のlogicでは無く、Human Natureなのです。

市場安定期にLogic通りの政策を実施するのは良しとして、市場混乱時にはHuman Natureのコントロールこそが肝要なのだと思うのですが、ここ2週間ほどの市場の安定を過大評価したのかECBもFRBも市場混乱時のシグナル効果よりも、学問上の筋を通す事に軸足を移してしまったようです。

9月に入ってからは、ECBもFRBも、流動性の供給は足元の問題への一時的な特別対応であり、政策金利の引き下げとは切り離した話であるという「それはそれ、これはこれ」という時期的には極めて不適切なメッセージを市場に送ってしまいました。

"Show them that you care"

まさにそれこそが当局から発せられるべきシグナルメッセージだったその時に・・・・・・

普段はブラブラしているように見えて問題があれば各家庭に断固たる手紙を出す校長先生、実態的な効力は無くともただ適当に頷くだけで子供を安心してトイレに行かせる両親・・・・その役割を金融市場に期待された金融当局は、欧州も米国も金融市場を突き放すようなメッセージを送ってしまいました。

ヘッジファンドが他のヘッジファンドが危ないと言う話を吹聴する。投資銀行がお互いに相手の投資格付けの引き下げを繰り返す・・・・・現在進行形のこんな状況は、Name calling 以外の何物でもないというのに。

当局は自らの"Name Value"を過信したとも言えるし、読み間違えたともいえるのでしょう。

今後は当局に対する"Name Calling"が間違いなく増えるでしょう。

そして、もう校長先生はいないのです。

金融市場という学校は、当分荒れそうですね。  

Earthquake & Typhoon.

今週は日本列島は本州にも大きな台風が来ました。東京を中心とした関東地方にも大きな影響が出ています。

首都直撃は木曜日の夜でしたが、NYから来ていた友人の歓迎会があり、彼が週末には帰米する事から我々は会の断行を決意して人影も少ない夜の街に繰り出したのでした。

我々はよく、"大きな絵としては・・・"などと言いますし、英語でもそのまま"The big picture"という言い方を使いますが、木曜日の会に出ていて、幾つか重要なことを再確認しました。

1 あらゆる事象の実態は、"大きな絵"と言うよりも、"大きな彫刻"である。

2 あらゆる人物や勢力は極めて近視眼的である。

というのがその中でも大きな二つです。

1について感じるのは、何事にも自分には良く見えない側面や裏面があり、物事の実態は平面の絵ではなく、立体的な彫刻に近いと言う事です。
 木曜日はNY市場を経験した金融関係者の集まりで、商社、銀行、メディア、証券会社などの人間の集まりであったのですが、当然話題になった今回のサブプライム問題や金融市場の混乱についてもそれぞれの分析や認識に結構な相違を発見して皆が意外感を伴う新鮮な発見をする事にもなりました。

私自身も、何事も現実は立体的な彫刻であり、自分の現在地からは見えない側面や裏面についての情報を得る唯一の方法は、自分とは違う位置に居る人々・・・・側面や裏面から同じ彫刻を見ている人々(彼らにとってはそれが正面図なのですが)と情報を交換する事であると再認識しました。

2つ目も非常に重要なポイントで、今の金融市場の状況を正しく理解する上でとても重要な事だと思っています。
 
"あらゆる人物や勢力は極めて近視眼的である"というのはどういう事かと言えば、人は皆自分の足元の状況を基準に物事を判断すると言う事です。理屈的には自分に見えている事、自分が知っている事は全体のほんの一部分でしかないと理解はしていても、どうしても人間は自分の視界にあるものや知識をベースとしてその延長線上に全体像を位置付けるという習性があります。

一気に本質に入りましょう。

今回の金融市場の混乱は、サブプライム・モーゲージ不安→流動性懸念→市場参加者の資金繰り能力懸念→・・・・・  と言う経路で展開してきましたが、私なりに世界中のあらゆる勢力とのコミュニケーションを通して非常に強く感じている事があります。

それは・・・ "震源地に近い人ほど悲観的である" と言う事に尽きます。

殆ど例外なしと言っても良いでしょう。例えば、ヘッジファンドは大丈夫かというテーマに対してはヘッジファンド業界内部からの声が最も悲観的であり、更に大手のヘッジファンドほど悲観的な見通しを持っているようです。
 これはどう考えても、外部に対する情報開示が限定的な同業界にあって、大手や老舗ほど業界全体の状況を把握しやすいという事実と強い関係があるからだと確信します。
 90年初頭には数百だったヘッジファンドは、現在確認できるだけで1万を超えていますが、老舗や大手は組織的にも人材的にも"のれん分け"を含めた幅広なネットワークを有しており、業界全体の状況がより把握し易い立場にあると思われますが、まさに今後千単位で新興ヘッジファンドが整理されても驚かないというスタンスを伝えてきています。

色々な金融機関からは、サブプライム証券の保有規模などから自社は大丈夫だと言う声が聞こえてきますが、一方でそれぞれの金融機関内部で実際に商品の組成や販売業務などに携わった人間ほど実際の規模的リスクを把握しているためか、自社の先行きを懸念している事がわかります。

この問題がどこまで根深いか、どこまで痛みを伴う結末を迎えるかと言う事と、為替市場における円高がどこまで進むかと言う事は深く関連付けて考えられているようですが、よく見ると自社の為替見通しで大きな円高を予想している金融機関と、この懸念を背景に株式市場が下落する時に株価の落ちている銘柄が妙に一致しているように見えるのも非常に興味深いことです。

地震の後に、震源地に近い場所に居る人々ほど余震に怯える事や、台風で被害を受けた地域の人々ほど次の台風を怖がると言う当たり前の事と同じ事が金融市場でも起きている訳ですが、当局の今後の対応が後手後手に回るなどしてハードランディング的に金融業会の膿を出し切るという事にでもなった時には相当ひどい事になってしまいそうだと言うのが正直な印象です。

そう・・・木曜日の集まりの全体感は、さほど悲観的ではなく、そういう意味では一部の予想通り、日本勢はこの問題で直接的なリスクはあまり抱えていないのかもしれません。楽観的な民族性というだけかもしれませんけどね・・・?

Bernankeの失敗 : Too many gaps.

金曜日の夜に今は違う会社に居る後輩に誘われて外食をしていました。
 私はオフィスには戻らずにそのまま帰宅する積もりでしたが、彼は注目の米雇用統計までにはオフィスに戻ってもう一勝負する予定でした。

ところが、ややスタートが遅れてしまったためにそろそろ食事メニューをオーダーして切り上げようと思った時には既に午後9時を過ぎており、また目の前の彼は既に体中にアルコールが回りきった状態で私の方を向きながら白目をむいていたので、結局我々は携帯WEBとポケットロイターでこの重要指標の発表を追いかける羽目になりました。二種類の焼き蕎麦をシェアしながら・・・・

Non-Farm Payroll、非農業部門新規雇用者数が4年振りにマイナスとなり、前月の数字も下方修正という指標の内容は、きっかけ待ちだった金融市場に再度パニック状態へ回帰するチケットを手渡すのに十分な内容だったと思います。

金融当局の失敗、無力化、過信、・・・・・

実は後輩から見れば私も白目をむいていた可能性も高い位アルコールの影響を受けながら、脳裏に浮かんできたのはそんな概念でした。

私は、金融当局全体、特に米国のFRB議長であるBernenke氏の抱える最大のテーマは、サブプライムモーゲージ債権悪化のダメージを蒙る対象の中からどこまでをどのように救済するのかにあったと思います。

具体的には、当局が動くにしても全てを救済してしまえばモラル・ハザードと言う形で将来に禍根を残すので、その線引きの策定に知恵を絞ってきたというのがここまでの動きだったと思います。金融革命というユーフォリア的な概念を主導して多種多様な新商品を組成してきた投資銀行、それらに高い投資格付けを与え続けてきた格付け機関、プロとしてそれら商品にリスクを承知で投資してきたファンドや機関投資家、仕組みやリスクを理解していた可能性は低いものの自己責任の原則もある一般投資家・・・・・・これらのどこまでをどのように救済するのかと言う事です。

モラル・ハザードを残さないように重要な教訓として、ある程度の痛みは経験してもらう必要があるが、全体の軟着陸を実現しながらどのようにバランスを取るか。

To beat or not to beat, that is the question.

To be or not to be, that is the question. という有名なシェイクスピア作品の言葉に擬して、私は金融当局のジレンマをそのように表現できると考えてきました。

徹底した足元流動性の供給という、しかもECB,FRBを中心とした各国当局の協調的な初期対応は充分評価に値する効果を持ちました。
 これをドル円をパラメータとして評価すれば、8月中旬に111円61銭まで急進した円高が、117円15銭まで振れ戻す動きがあったわけですが、ここで金融市場にも一服感が出たところで、どうも金融当局にも過信が出てしまったように感じます。

毒蛇に足を噛まれたとして、その傷口を縫い、薬を塗れば足は急速な回復をしたように見えるでしょう。しかし、体の中では確実且つ広範囲(全身)に猛毒が回り始めており、次に問題が表面化したときにはどこから手をつけてよいのかわからないくらい全体が弱っていると言う事象に近い事が今の金融市場では起きつつあるのだという危惧を抱かざるを得ません。

当局の過信という問題の本質に関する認識ギャップは、Bernanke議長率いる新FRBの限界を露呈している可能性もあるでしょう。

Bernankeの失敗。 それは今、始まったばかりなのかもしれません。

千鳥足でオフィスに戻る後輩の大きな背中を見送った後、駅に向けて歩を進めながら、私はそう自問自答していました。

ふと気が付くと、強烈な尿意を催していました。
そういえば結構飲んだのに一度もトイレには行っていませんでした。歩幅を狭めないと危ないくらいの尿意でしたが、漏らさないように中腰で駅まで行かなくてはなりませんでした。

どうやら私にも過信があったようです。

2007年9月2日日曜日

個人情報 : Privacy

実は今、前歯にインプラントを入れるプロセスの最終段階に入っているのですが、6月末に米国で土台(ネジみたいなもの)を歯肉内に埋め込んだ後、米国で紹介してもらった東京の歯科医がちょっと遠いところにあって通院が難しいと判断せざるを得なかったので、色々調べてみると意外と近くにも良い歯科医があることがわかりそこで残りのプロセスをFinishする事にしました。

土曜日にはその歯医者で歯肉の先端を開いて将来の歯の代わりにネジを差し込むと言う作業を行い、今後の涙無しには語れない治療費の説明を受けたあと、最後に受付で保険適用外高額自己負担治療の契約書に署名をさせられている時でした。

横から視線を感じてふと見ると・・・そこには治療を終えたと思われるオバサンが居て、担当していると思われる歯科医(この医院は複数の歯科医がそれぞれ担当患者を持っている仕組み)とカウンター越しに次回の予約日などを相談しながら、その視線と耳はこちらに釘付けという感じでした。

う~ん・・・・・・・

保険業界もこの1年くらいで色々と未払い問題など噴出した為か、現場の人々がてんてこ舞いするくらいの契約者への説明作業がノルマとして課せられたのでしょう。私の生保業界の友人達の中にも相当大変そうな人も居て一時は可哀想なくらいでした。

 私が加入している生保からも契約内容の確認や説明などが随分とオファーされましたが、こちらも忙しいのでそれはそれは・・・・申し訳ないのですが迷惑なくらいでした。

それは良いのですが・・・・

先方も当方と言うよりは自分達を守るためにやっている訳で、期限を切って全契約者にしっかりと説明をして記録に残すと言う作業を行っていたのでしょう。私が加入している保険会社からも私の会社を担当している人から会社で説明を受け、更に住んでいる地区を担当している営業所からも何度もアプローチがありました。

 膨大なデータの中から担当のすみ分け等を行う猶予は無かったのでしょう。既にうちの会社を担当している人から説明は受けたと言っても、それでは自分たちのリストが消し込めず、上司や本部から非常に厳しいトレースを受け続けていると言う懇願に近い話をされて、どこの会社でも似たようなものなのだと思うと可哀想で断りきれず、週末の外出する前に数分と言う約束で来て貰いました。

玄関先で話をしたのですが、マニュアル通りと思われる質問を矢継ぎ早にされました。

・これまでに入院、手術などはなかったか。大きな病気は?
・健康状態はどうか。

などですが、実は私色々と過去に怖い経験もしているので、全て該当無しと言うわけにも行かないのです。それを約束の時間に遅れてきた息を切らしたオバサンに大きな声で根掘り葉掘り質問をされる・・・・・しかもここは狭く壁も薄い安普請の集合住宅・・・・・・なんでここで過去の病歴を近所にばらさなきゃいけないんだろう・・・・という気になりました。

昔日本の病院に行って診察券を出して待合室で待っていると、看護婦さんに他の患者の面前で、「今日はどうなさいましたか?」などと聞かれる事がありました。あれでは股間が痒いなどとは決して言えませんよね・・・・・・。
 今ではあれは流石に無くなっているのではないかと期待しますが、まだまだ個人情報保護とかプライバシーに関する意識はこの国では随分と低いような気がします。

米国にある Do not callという法律(セールス電話不要と言う登録を受付け、登録済みの先に業者が電話をすることを違法とするもの)のようなものを導入すれば、高齢者相手の詐欺などもどれだけ防げることかわからないのにと思うと、ここに書いた自分の経験とあわせても課題は多いと感じます。

金融商品取引法というのでしたっけ・・・・かなり極端な内容も含む法律が出来ますが、消費者保護より投資家保護のほうが先に来るというのもそれはそれで構わないのでしょう。 

今後日本でも各方面で急ピッチで法律が整備されて行くことで、国家都合の法治国家から、我々一般国金、市民が法律で守られる法守社会が実現されていくことを望みます。法治ではなく、奉仕国家とでも名づけましょうか? どこかの政党が使ってくれるかもしれませんよ。(笑)

2007年9月1日土曜日

英語検定とTOEIC

英検とTOEICと言うものにはどのようなイメージをお持ちでしょうか?

英語検定と言う制度が日本で生まれたものであり、TOEICというものは海外で生まれたものであると言う"起源"(ちょっと大袈裟?)から考えても当然かもしれませんが、前者は色々な意味で日本的であり、後者は欧米的であるというのが私の考えです。色々な分野に共通する話なのですが、その典型的なものの1つにクレジットと言う概念へのアプローチ方法の違いがあると思います。
 以下はクレジット=信用供与、信用創造として話を進めます。サブプライム問題を震源地に揺れる金融市場の中で色々な事を考えたのですが、これもそのうちの1つです。

私はかつて住宅ローンを中心とした貸し出し業務に従事していた事がありますが、申込人から提出を受けた収入などの条件をチェックリスト上で審査して対応の可否を判断すると言うもので、結果は当然ながら可か否かのどちらかのみでした。

 更に、対応可となった場合の実施条件についても 余裕でパスした人もギリギリでパスした人も同じ貸し出し条件となるというものでした。

これは、住宅ローンなどの申込人を受験者に置き換えれば、結果は合格か不合格しかない英検型の対応と言う事が出来ます。

一方で米国ではどうかというと、ローン(モーゲージと呼ぶ事が多いですが)の申込人の過去の経済活動が既にスコアリングされていて、そのスコアに応じた貸し出し条件が決定されると言うシステムです。

 「対応できます」か「対応できません」ではなく、「あなたのスコアだとこういう条件になりますよ」というのが基本線なのですが、これは上記の英検型との対比においてTOEIC型であると言う事が出来ます。

また、日本の金融機関は申し合わせたわけでは無いのでしょうが、A銀行で断られた場合、B銀行やC銀行では住宅ローンが組めたと言う場合は極めて稀であり、最も低金利でローンが組める都市銀行や地方銀行で謝絶された場合は、市中金融機関と言われるところで対応してもらえるケースも多いのでしょうが両者間の適応金利の差は非常に大きなものがあります。こういうところは明らかに日本の金融システムの硬直性だと思っています。

一方でTOEIC型であれば、大袈裟に言えばスコアの数だけ対応条件があることに加えて、同じスコアに対しても、金融機関ごとに対応条件が異なるために一生懸命探すとより低い金利でお金を貸してくれる相手が見つかったりもします。

日本の場合は自分で取引銀行に相談に行くのですが、米国の場合はモーゲージブローカーに手数料を支払うと自分の代わりにあちこちと交渉してベストな条件を探してくれると言うパターンも多いようですし、なんとWEB上で金融機関側が条件入札を競うというシステムもあります。

"When banks compete, you win" というのがキャッチだったと思いますが、この辺りは米国の金融システムの柔軟なダイナミズムであると言えるでしょう。

このダイナミズムが行き過ぎてしまったのが今回の問題の震源地となっているのですが、背景は上記のような競争の中で、日本で言う最初の数年は返済が楽なステップ型返済パターンが随分増えた事とその住宅ローン(モーゲージ)債権を切り売りして小口投資家にまでばら撒くと言うリスク分散が可能になっていたと言う背景があります。

ただ・・・・・・ではこのダイナミズムは間違いだったのかというと、そういうものでもないだろうというのが私の考えです。

英検よりも、TOEICのほうが私は好きなのです。