毎年この時期にはアパートの玄関を出た辺りなどにもセミが仰向けに倒れているのを良く見かけるようになります。そのうち死んでしまうのですが、大抵はまだ生きていて少し刺激を与えると飛んで行ったりするのですが、思い返せば子供の時に最初に捕まえた(?)セミもそういう最期の時を待っている状態でした。
セミは幼虫時代の6年~7年間を地中で過ごし、成虫になってからは1週間~10日間程度で死んでしまうのですが、私はこの時期に仰向けのセミを見つけるたびにつま先などでちょこっと刺激を与えて飛んで行かせたりするのですが、それは力在る限り与えられた時間の最後の瞬間まで元気に空を飛ばせてあげたいという思いがあるからです。
駅のホームの抜け殻と死骸は余程の偶然でもない限り別々のセミなのでしょうが、何かセミの命のはかなさを物語るような光景で、暫し考えてしまいました。
セミに知性があったなら、6年~7年地中にいた時代と最後のたったの1週間ほどの地上生活のどちらを懐かしむのでしょうか。多くの人が後者だと断定しそうな話ですが、果たしてそうなのでしょうかね。
私は周囲の多くの人間とは違って大学時代で楽しかったのは専門課程に進んだ後の2年間ではなく最初の教養課程の2年間でした。多くの人は自分の専門の選択も決まり研究室への配属も決まったあとの研究生活を懐かしむようですが、私は受験勉強からも解放されて自分の進路についてあらゆる可能性を吟味したり大きな夢を語る事も許容された教養課程の2年間がとても楽しく思い出されます。
セミの地中生活を下積み時代のように考える傾向が在りますが、何かで功なり名を遂げている人でもそこに到達するまでの浪人や失業などのモラトリアムの時代こそが最も充実していたと述懐している人も少なくないですし、人生と言うものはセミの最後の1週間のように飛び回っていればよいというものでもないですからね。
セミといえば・・・・少し前までのミンミンゼミ中心の鳴き声から最近になって随分とツクツクホウシなどの鳴き声が増えてきましたね。これはセミの構成が夏終盤から秋の初めに掛けての顔ぶれに変わってきていると言う事です。
セミの季節は長いのですが、鳴いているセミ自体は個体も種類もどんどん入れ替わっており、そこに定常状態というものはありません。
仏教の空の論理に思いを馳せてしまうようなセミのお話でした。
さて・・セミの抜け殻と死骸を見つけた駅のホームから程近い公園の木の幹で息子が二匹のセミを見つけたと知らせにきました。行ってみると二匹のセミは臀部が繫がっていました・・・・要するにお取り込み中だったわけです・・・・
どうしたんだろう?
と息子が言うので・・・
あれは・・・・そう、双子なのよ。
と嘘を言ってしまいました。彼が夏休みの作文に書かない事を祈ります。
こういうのって教えるのが難しいですね・・・・昨年の夏はカブトムシを飼っていましたが、お取り込み中のつがいを喧嘩しているものと勘違いした息子が必死に引き離していました。
God, please do not remove his innocence as a child for a bit longer.
親と言うのは勝手なもので、子供の成長を願いながらもこういう矛盾したお願いもしてしまうものですね。