先日の山本勘介に続き、今日は小田原北条氏について書きます。
10年以上振りに日本に来て、天守閣が見たくなった私は先日小田原まで出向いて本当に久しぶりに小田原城を見て、天守閣にも登ってきました。丁度小田原三代祭なるものが開催されていて城内は露店などで賑わっていました。
小田原北条氏は、この城を拠点に関東一円を支配下に置く天下を狙える大大名となり、5代続きましたが、どんな日本史の教科書にも登場する北条早雲から数えて、氏綱、氏康までの最初の3代が特に傑出していたと言うことで5代祭ではなく、3代祭なのでしょうか?
結果的に小田原北条氏を滅亡に導いた4代目と5代目(氏政、氏直父子)が地元の人々に評価されていないのだとしたらちょっと気の毒ですね。
こういうのは、巡り合わせの運不運が大きいし、それ以前に運命・宿命かもしれないとも思うのです。
今年の大河ドラマの題材である武田氏にしても、信玄が自らの煩悩に負けて周囲の猛反対を押し切って諏訪氏の娘を強引に側室にして生ませた息子が後に武田家を滅亡に導いた武田勝頼であり、後に信玄が正妻の大井夫人が生んだ世継ぎである武田太郎義信を自害に追い込んだのも、勝頼の存在が世継ぎの不安をなくしていたから踏み切れたことだと思います。
ライバルの上杉謙信にまで認められていた太郎義信が信玄の後を継いでいたら、長篠の合戦の大敗やあれだけ急な武田家滅亡は無かったかもしれませんし、自分の父親と反目していた信虎が信玄に追放され、信玄は更に意見の合わない長男義信を殺してしまい、滅ぼした諏訪氏の娘を略奪して産ませた勝頼が武田家を滅亡に導くと言うのはなんとも言えない因果な負の連鎖とも表現出来ます。
同じように、戦国時代の幕開けを告げる役割として歴史に登場した北条早雲を祖とする小田原北条氏が、後の豊臣秀吉の天下統一事業の最後の仕上げの引き立て役となった事。秀吉の小田原征伐で北条氏が滅亡することで戦国時代が終焉を迎えたという歴史の流れにはなんとも言えない無常観を感じざるを得ません。
歴史と言う悠久の時の流れの中で、やはり我々はそれぞれに何らかの役割を担って存在しているのではないでしょうか。 歴史の研究において特定の一族や人物にFOCUSして見て行く時に、そういう気持ちになることは非常に多いですね。北条氏なども戦国時代の幕開けと幕引きを両方担った一族であったわけです。
小田原に向かう電車の中で、私は途中で眠りに落ちていました。目覚めたときには周囲の人々が皆電車を降りていくところで、私は駅名の”小田原”と言う文字を確認して慌てて立ち上がり他の乗客に続きました。
その時、私の対面の席に同様に眠りこける男性を発見し、私は彼の膝を叩いて彼を起こしました。
”小田原ですよ” という私の顔を彼は不思議そうに見上げながら、事態の把握が出来ていないようでした。私がもう一度彼に声を掛けようとしたその瞬間に、駅のアナウンスが聞こえました。
”箱根湯本行き間も無く発車です”
平然として私を見上げる彼に対して、私は寝ぼけていたのは自分の方であると悟りました。小田原では確かにほとんどの乗客が下車しましたが、別に終点ではないのです。箱根湯本方面に行く乗客を私は起こしてしまったようでした。
”あ、ごめんなさいね”
そう言って私は電車を飛び出して、そのまま忍者のように走り去りました。
彼には偉い迷惑だったことでしょうが、最後まで不思議な人に出会ったと言う記憶だけが残ったのではないでしょうか。
私が担って生まれてきた役割が、こういうドタバタばかりであれば、それはとても悲しいことではありませんか。
困ったものです・・・