Call my name. 私の名前を呼ぶ→私を呼ぶ
Call me names. 私の悪口を言う
You can call my name but do not call me names.
必要な時は私を呼んでください。でも私の悪口は言わないで。
冒頭の二つの表現の違いを整理するために、このような例文を自分で作って記憶していた少年時代を懐かしく思い出します。
二つ目の表現は、Callという他動詞の後に来る目的語をme,himと言った目的格とする事とその次に来るのがname(単数形)ではなく、names(複数形)とするのがポイントですが、これは悪口が口コミで広がっていく様を想像してイメージ付けると良いと思います。
この表現の名詞形とも言えますが、他人の悪口を言う事、それを広めるという行為をName callingと言います。
米国では子供が通っていた学校の校長先生から全世帯宛に、校内の一部でName callingという卑劣な行為が起きているようなので各家庭でもそれがいかに卑怯な行為であるかを子供に教えるようにと言う手紙が出された事がありました。普段は何もしていないように見えた校長先生が、こういう時には別人のように陣頭に出てきて毅然とした対応をする所に妙に感心した事を覚えています。
私は子供の頃に、夜中にトイレにい行く時に、トイレに化け物が居たらどうしようという恐怖から必ず両親のどちらかに自分がこれからトイレに行く事を伝えてから行く事にしていました。
両親は眠ったまま適当に返事をするだけでしたし、実際にトイレに化け物がいたならひとたまりも無かったのでしょうが、自分がトイレに行く事を知っていてもらうだけで安心出来たのです。
校長先生の手紙が持つ効果も、両親の寝ぼけた返事も、ともにそれらが持つ実態的な効力を証明する事は困難であり、せいぜい経済学で言えばシグナル効果という程度しか無かったかもしれません。
でも・・・私はこれが非常に大事だと思うのです。
金融市場において、欲望と恐怖は表裏一体ですが、市場への影響力には完全な非対称性があります。バブルの形成過程では欲望が主な原動力になりますが、資産価格の上昇は段階的なプロセスとなります。一方でバブルの崩壊過程で主役の座に躍り出るのは恐怖な訳ですが、その過程における資産価格崩壊の形状は殆ど断崖絶壁からの垂直落下に近く、それまでの価格上昇過程とは全く非対称な形状となります。
ECBとFRBが大規模な流動性の供給に踏み切った事は大英断でした。そしてFRBが行った緊急の公定歩合引き下げも見事な手際だったと思います。それらが金融市場の安定にどれだけ寄与したかは全く議論の余地が無い位に明白なのです。
市場の一部には、それがどうしたと言う意見もありましたが大事な事は実際に金融市場が安定した事なのです。当局の言動は、校長先生の手紙や両親の寝ぼけた頷き程度かもしれませんが、その絶対的な存在の重さに裏打ちされたシグナル効果は理屈や学問理論上の正当性以上に大切な時があるのです。
金融市場を支配するのは、経済学上のlogicでは無く、Human Natureなのです。
市場安定期にLogic通りの政策を実施するのは良しとして、市場混乱時にはHuman Natureのコントロールこそが肝要なのだと思うのですが、ここ2週間ほどの市場の安定を過大評価したのかECBもFRBも市場混乱時のシグナル効果よりも、学問上の筋を通す事に軸足を移してしまったようです。
9月に入ってからは、ECBもFRBも、流動性の供給は足元の問題への一時的な特別対応であり、政策金利の引き下げとは切り離した話であるという「それはそれ、これはこれ」という時期的には極めて不適切なメッセージを市場に送ってしまいました。
"Show them that you care"
まさにそれこそが当局から発せられるべきシグナルメッセージだったその時に・・・・・・
普段はブラブラしているように見えて問題があれば各家庭に断固たる手紙を出す校長先生、実態的な効力は無くともただ適当に頷くだけで子供を安心してトイレに行かせる両親・・・・その役割を金融市場に期待された金融当局は、欧州も米国も金融市場を突き放すようなメッセージを送ってしまいました。
ヘッジファンドが他のヘッジファンドが危ないと言う話を吹聴する。投資銀行がお互いに相手の投資格付けの引き下げを繰り返す・・・・・現在進行形のこんな状況は、Name calling 以外の何物でもないというのに。
当局は自らの"Name Value"を過信したとも言えるし、読み間違えたともいえるのでしょう。
今後は当局に対する"Name Calling"が間違いなく増えるでしょう。
そして、もう校長先生はいないのです。
金融市場という学校は、当分荒れそうですね。