ドル円が100円以下で取引される円高ドル安は1995年以来なのですが、実はまさにその1995年の4月にドル円は80円(正確には79円75銭)という史上最安値をつけています。
今でもはっきりと覚えていますが、当時は誰も80円で止まるとは思っておらず、例えば通貨オプション市場でも2ヶ月とか3ヶ月と言う期間で60円台の行使価格のドルプット円コールが物凄い勢いで購入されていました。
相場はその後反転して何と150円を阻止するために本邦当局がドル売り円買い介入をするところまで行ったのですが、5年とか10年程度のスパンで見ても相場の振幅は相当なものだと今更ながらに思わされます。
さて・・・
その大部分を100円以下の円高ドル安水準ですごした95年当時の記憶の中で今でもよく思い出す話の1つを書きます。
当時私はNYにおりましたが、ある時尊敬する先輩から電話を貰いました。その日の日経新聞に出ていたある電機メーカー社長のインタビューが偉く格好いいから読みなさいという話だったのですが、普段は冷静沈着な彼にしては随分と興奮していたのを良く覚えています。
早速私も記事を探して読みましたが、インタビューでこの社長が述べていた事は確かにポイントを押さえた正論であり、ある意味痛快ですらあった事を覚えています。勿論一言一句は再現出来ませんが、要点は以下のような物だったと思います。
円高で世間は大騒ぎをしているが理解に苦しむし、恥ずかしい事だとすら感じている。為替市場を含む金融市場の仕組みを正しく理解している人ならば全ての通貨が上下に振幅するものであり、時としてその振幅の幅は想定していなかった水準で起こりうると言う事は常識であり、国際舞台でビジネスを展開する企業の経営者として当然認識され、一定の対処もなされていなければならなかった経営リスクの一つだった筈ではないのだろうか。
そのリスクが具現化した時にあたかも天変地異のような大騒ぎをして自らが何らリスクをヘッジしてこなかった事を棚に上げて国に為替介入等を働きかけるのはこの国の経営者の水準が未だ他国に遅れを取っている部分ではないのだろうか。
手前味噌の話になるが、自社は従来から出来るだけ為替市場の変動の影響を受けないような対策を取って来ており、今回の円高による影響は極めて軽微だ。我々は国際的に生産能力も販売網も分散させてきており、通貨が安い国や地域での生産活動を増やし、通貨が強い国や地域では販売活動を強化するという柔軟な対応を可能にしている。これによって生産コストを抑え、売り上げを増やす事ができると言う事である。
円高のせいで、売り上げや収益がどれだけ減少したかと言う恥ずかしい話を公言している企業もあるが、それは残念ながら経営の失敗であり、市場の問題ではないのだ。
私もこの話には大いなる感銘を受けた事を覚えています。今回の円高に関して再び経済界などからも様々な発言や要望が出ていますが、95年当時の80円を割り込む局面すらあった円高体験から日本の経済界、特に輸出企業が学んだ事は何だったのか・・・・? そのような視点でも今後の動向を見て行きたいと思っています。
さて・・・・
なぜ今日の標題が、One sentimental memory なのか・・・・と言うと・・・・・・私の認識が間違っていなければ、この見事な持論を展開された社長の電機メーカーは、その後日本を襲った長期不況の中で大幅な業容縮小を余儀なくされて現在では当時のような誰もが知っている国際企業という存在ではなくなっているからです。おそらくこの社長が退任された後の事だとは思いますが、為替変動リスクには機動的に対処したこの企業でも、他の経営リスクへの対処をどこかで間違えたという事だったのかもしれません。
ずっと後にこの企業の経営問題が新聞などにも出るようになった時に、私はとても感傷的な気持ちになって、企業経営、組織の維持というものの奥深き難しさに思いを馳せたものでした。
Although life is sometimes tough and rough, let's take it and just move on.
All the best.
Robert Henry.