2012年2月19日日曜日

Celebration of Life

久し振りに教会のFuneral Serviceに参列してきました。

仏教の葬儀は複数の僧侶がお経を上げていますが一般の参列者には意味が判らないのに比べて教会では牧師(or神父)による説話のような形態でセレモニーが進行するのでわかりやすい一方で賛美歌を歌うようなところでは中々ついていけない感じもあるように思いました。

米国時代にも何度か知人の葬儀で協会に行きましたが、特に故人が一定の年齢以上であればその人生を祝福し、神に召された事を確信して更に祝福すると言うイメージであり、短時間で終了する事と併せて宗教間の違いを感じます。

出席したことはありませんがイスラムでは天国(緑園と言います)に行けば往生時の年齢に関係なく人生で一番美しかった時の肉体に戻された上で多くの異性に囲まれると言う殆どハーレムのような環境が待っているそうなので天寿を全うしたような年齢であれば祝福色が強いのではないでしょうか。

実は今回は時間に遅れそうになり、最寄り駅を出て地図を片手に切羽詰っていたところに私の目の前にTaxiが止まり、丁度駅までTaxiを利用した人達が数名降りてきました。
 運転手もドアを閉めずに私がそこにいるのをわかっていたかのように招き入れてくれた感じでしたが、お陰で何とか時間通りに教会に着くことが出来ました。

10年ほど前の同時多発テロの際にワールドトレードセンターの非常階段を下りていた時、何故か下の階に行くほど壁や天井のダメージが大きく、遂に20数階まで来たところで煙などが酷くてそれ以上下れなくなった人々が逆流するように非常階段を上り始める場面がありました。

「下のほうが危険なので戻れ、上れ」 と言うのです。

私は上階に戻ると言う選択は無いと思いましたが、兎に角道を譲るように脇に退いたところにドアがあり、そこから一旦フロアに出て、結果的には対角線上にあった反対側の非常階段から地階まで下って無事に非難する事が来ました。

あの時たまたまそこにドアがあったのも、今回そこに偶然Taxiが来たのも、実は"たまたま"でも"偶然"でも無かったのではないかと思ってしまうのですが、自分の信仰はこういうところにあるのでしょう。自分は誰かの手の中にいるのだと感じる時ってありますよね。

兎に角旅立たれた方の人生を祝福し、お祈り申し上げます。